京都・世界遺産を知りつくそう!華麗な建造物が楽しめる「本願寺(西本願寺)」の魅力
本願寺(西本願寺)の歴史
『本願寺』と聞くと思い出すのは、織田信長の名前です。石山合戦以降は信長と講和する融和派と対戦派の二分化が激しくなりました。あくまでも信長とは和解したくなかった対戦派は、徳川家康に近づき東本願寺を本山とする本願寺大谷派となります。
信長が石山本願寺を執拗に攻め続けたのは、戦国の世を平定する為には、この石山をどうしても抑え大名に睨みをきかす為だったとも言われています。それだけでなく、一向宗である本願寺にはたくさんの信者がおり、御布施により支配力と資金力を持つ1つの勢力であったのです。
本願寺を中心とした一向宗の国が出来上がっていたために、戦国武将と同じくらいの権威と権力を持つことになりました。徳川家康が分離に協力的であったのも、東と西に分ける事で権力を分断させ脅威にならないように配下におきたい思惑もあったのでしょう。
これぞ本願寺(西本願寺)『阿弥陀堂門』
檜皮(ひわだ)の葺屋根に、豪華な飾金具は金箔が施されておりまるで城門のような荘厳さです。これを見れば、本願寺がどれだけ権力を持っていたのか、戦国大名がおそれた「民の信仰の力」がどれほど脅威であったのかも頷けます。
阿弥陀堂の廊下に注目!『埋め木』
広い阿弥陀堂内には、本尊の阿弥陀如来像を中心に左右に祖師七師と聖徳太子像が安置されています。
その廊下には、変わった埋め木が幾つかあり、破損した床を補修した後なんです。ひょうたんの形が多く、中には象や相撲の軍配のようなものもあります。
お寺でこのようなユーモアのあるものが見られるとは、ちょっと驚きですよね。
京都三名閣!『飛雲閣』
『飛雲閣』は、聚楽第(じゅらくだい)の一部ともいわれていて、秀吉が天下統一の為に建築し、茶々を主人として迎え入れたものです。金閣、銀閣が有名ですが、この飛雲閣も素晴らしい楼閣建築で当時の粋をこらした素晴らしいものです。
通常は非公開なので、見られないとがっかりしてしまう人が多いのですが、前日まで予約をすれば中には入れます。観光シーズンは混み合う事もありますので旅行の計画を立てたら早めに予約しておきましょう。
西本願寺飛雲閣が自分の本丸イメージある…庭も外観も最高 pic.twitter.com/MV2oWfiVNh
— 盛谷 (@0poroporoporo0) 2016年6月15日
清楚にしてたおやかな『黒書院』
門主が寺務を行う場所で、狩野探幽筆の襖の黒絵は趣があり、落ち着いた空間になっています。江戸初期の数奇屋(すきや)風の書院で国宝です。
新選組を感じる『太鼓楼』
新選組が本願寺(西本願寺)に屯所を移したのは、慶応元年。『太鼓楼』と北集会所を屯所として武芸や砲撃訓練を行いました。慶応三年に不動堂村に移転するまでは、ここに200人はいたというのですから、僧はたまったものではなかったでしょう
時刻を告げる太鼓が現存し、内部には刀傷が残っているそうです。
「書院 」と呼ばれる一画@西本願寺
ここも普通は入れない。鴻の間・雁の間・菊の間・白書院・黒書院・北能舞台はすべて国宝。南能舞台は重文、虎溪の庭もある。これも外から…唐門の前。バスツアー以外で入るには?続く #bura_bi_now pic.twitter.com/5xDMGHn2MW— Kanpanerura (@Siamese___Cat) 2016年5月3日
本願寺(西本願寺)の近代建築『本願寺伝道院』
真宗信徒生命保険会社の社屋として伊東忠太(いとうちゅうた)が設計し、あの竹中工務店が施行しました。現存しているのは本館だけですが、建築当時は車庫や人力車の置き場などもあり大きなものだったそうです。
これだけ見ても本願寺(西本願寺)だとは誰も思わないかもしれませんね。内部は見ることが出来ませんので、記念写真で楽しんでください。
地下鉄の駅から龍谷ミュージアムに歩いていくとき、本願寺伝道院の横を通るのですが、石像がちょっとずつ違っていてかわいいです。伊東忠太設計だそうです。 pic.twitter.com/ntvXbTmvNU
— Yasuyo/ヤスヨ (@yasuyo_) 2016年5月22日
新緑とツツジと大銀杏
京都は花見シーズンが終わると、躑躅(つつじ)やサツキ、紫陽花が見頃になります。興正寺門前から西本願寺までの堀川通りをゆったり歩くと、門前まで躑躅(つつじ)の花が咲いているのを楽しめます。
境内に入ると、新緑と大銀杏が見事なまでに空から降り注ぐかのようでうっとりした時間を過ごせます。朝早くの澄んだ京都の朝の散歩を楽しんでみませんか?